アスペルガーという言葉に癒され、そして手放した。

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自分のことがよくわからないとき、自分のことを説明してもらえるとホッとする。

ちゃんとした根拠はないみたいだけれど、「血液型は何型?」という会話で根強くもりあがったりする。

占いとかも楽しいし、それこそ「視える」人に「あなたは〇〇です」と言われると「そうそう!そうなんです!」と心が動く。

そういうものの1つとして、私には「アスペルガー」という言葉がありました。

今は「発達障害」とか「ASD」とか「HSP」とかそういう言葉に置きかわってると思うけれど。

今日はそのことについて書いてみようと思います。

しんどさに寄り添ってくれたのは「本」でした。

なんか、しんどい。 
なんか、生きづらい。 
生きるって、なんだろう。

私はこんなに苦しいのに、まわりの人たちはどうしてあんなにリラックスして楽しそうに生きているんだろう? でも、きっと心の中なんて見えないだけで、 みんなも本当は私と同じようにしんどいのかもしれない。

そもそもしんどさって、比べられるものじゃない。でもそれでも、思ってしまう。 

もしかして、私がダメなのかな。 なおせるところがあるなら、だれか教えてほしい。 ヒントがほしい。

そんなふうに思っていた私に、そっと寄り添ってくれたのは「」でした。

だって、鬼ごっこしたり、プリクラ交換してキャッキャしたり、好きな芸能人とか、昨日見たテレビの話とか、好きな男の子の話とか。

そんなふうに楽しそうにしている周りの友達にがんばって合わせていた。それなりにうまくやっていたと思うけれど、その中で急に「ねぇ、生きるってなんだろう?」なんて聞けなかった。 子どもなりに場をわきまえて、空気を読んでいたんだと思う。

小説、心理学、哲学、スピリチュアル・・・いろんなジャンルの本たち。

 「生きるとは?」「私とは?」「ここでなんとかうまくやっていくには?」 「らくに過ごせるようになるには?」そんな私の問いに、ページの向こうからだれかがヒントを届けてくれているような気がして満たされた。

モヤモヤを言葉にしてくれる本。 
新しい視点をくれる本。
ハッとするヒントをくれる本。

少しずつ、少しずつ、私の中に知恵と言葉がたまっていく。 

「こうしたらうまくいくかも」 
「こう考えたら、楽になれるかも」

そう思える瞬間はたくさんあったけれど。

 でも思っていたより、生きやすくはなりませんでした。

アスペルガーなのかも

大学生のある日。 またしんどいことがあって、私はいつものように本屋さんに寄った。 つらい日には、なぜか本屋さんに行きたくなる。 静かだけど、どこかにぎやかで、でもひとりでいられる場所。

その日、ふと目に入った言葉。

アスペルガー症候群」。

初めて見る言葉だった。 気になって手に取った本を立ったまま、夢中で読み続けた。

「これ、私やん・・・」

胸の奥がざわついて、 なにかが静かに崩れる音がした。

今まで読んできた本は、「こうしたらいいよ」「こう考えてみては?」という、行動や思考を「変える」ことを前提とした本ばかりだった。だから「自分を変えればうまくいく」と信じていたし、そうしなきゃいけないんだと思っていた。

でも、その日出会った本はちがった。

「あなたは〇〇。だから、できなくて当たり前。苦手なのは、あなたのせいじゃない。」

そんなふうに語りかけてくれるような内容で、私の「しんどさ」を、そのまま認めてくれるような感覚があった。

あれは私にとってはじめての「自分を変える本」ではなく「自分を説明してくれる本」。

今までの生きづらさには「理由」があったのかもしれない。その理由には「アスペルガー」という「名前」までついているんだから、私と同じように感じている人は案外たくさんいるのかもしれない。

そう思えた瞬間でもあった。

本のタイトルは、どうしても思い出せない。 でも、フワフワした足取りであの分厚い本をレジに持っていった手の感触。 家族に見せながら「私、これなんだと思う」って言ったときの、胸の震え。

あの夜の記憶だけは、今もくっきりと残っている。

なんであの本を手放したんだろう。

あのとき、たしかに私を救ってくれた一冊。

読むたびにホッとして、涙が出そうになることもあった。 

でもなんであんなにも大切だった本を、手放してしまったんだろう。 別に、置いておいてもよかったのに。

思い返すと、その本に癒されていた一方で、 「あなたは〇〇なんです」と、決めつけられるような感覚が、どこかで引っかかっていたのかもしれない。

「あなたはこういう人間です」と「診断」されるような言葉に安心しながらも、 同時に、それだけで説明されることへの息苦しさも感じていたんだと思う。

たしかにそうかもしれない。
でも、全部が全部そうなわけじゃない。

クッキーの型を使うと、まったく同じクッキーがたくさんできるけれど、人間はそうじゃないでしょ?

 それに「〇〇だから、私はそれが苦手。できない。」で終わりにしたくない。人生なにがあるかわからないから、もしかしたら苦手なことが楽しくなることだってあるでしょ?

そんなちょっぴり反抗的な気持ちが心の奥に、たしかにあった。

癒されたし、救われた。 でも、そこに「閉じ込められる」のは、ちょっとちがう。

だから私は、あの本を手放したんだと思う。

息子が見せてくれた景色

アスペルガーという言葉。 あのときはあんなに衝撃を受けたのに、心を動かされたのに、いつのまにかすっかり忘れていた。

でも息子が生まれてから、 またその言葉が私のもとへと戻ってきた。

アスペルガー、HSP、発達障害、ASD・・・息子のことで何か困ったとき、ネットで情報を調べていると、必ずといっていいほど出てくる言葉たち。 目に入るたびに、どこか遠くに置いてきた記憶や感情が、じわりとよみがえってくるように思えた。

そんな中、息子は入園した幼稚園を強く嫌がった。

幼稚園なんて大っきらい!」 

まだ幼稚園だから、伝えてくれる嫌いな理由のひとつひとつは大人の私からしたら小さなことばかり。でも「ここは僕のいたい場所じゃない!」という息子の強い抵抗感は、痛いほどに伝わってきていた。

良くも悪くも「小学校っぽい幼稚園」だったから、近所の小学校に通って元気に楽しそうにしている息子の姿がどうしても想像できなかった。そんな中、ひょんなことから出会ったオルタナティブスクールへ通うことになったのだ。

そしてそこに通い始めてから、息子は言った。

ぼくは、ここが好き。

もちろん、日々いろんなことがあるし、楽しいことばかりではないけれど。 でも息子はどんなことがあっても「学校が好き」だと言う。「ぼくはここにいたいから」と、息子なりにちゃんとしんどいことも受けとめて、向き合って、折り合いをつけていく様子を、私は見てきた。

そんなある日、2年生の懇談でスタッフの方が言った。

「スタッフ間の認識としては、ASDの特性があると思っていて。みんなで共有しておいた方が、これからいろんなことを話しやすいと思って」

気楽な懇談だと思っていたから、急に飛び出してきたその言葉にちょっぴりびっくりしつつも、すっと納得している自分に気づく。

「うん、そうだよね。知ってる。」って。

でもそのあと続けて、スタッフさんは言った。

「診断とかは、どちらでも大丈夫です。診断があってもなくても、1人1人に対する学校での対応は特に変わらないので」

いろんな個性のある1人の人間として、ただ子供たちと向き合うスタッフさんたちの姿勢。

みんなちがってみんないい、ということが根っこにあるリラックスした雰囲気。

学校で困ったことがあったとしても、その都度ちゃんと話し合って解決したり、折り合いをつけられる環境がある。 そういう場所で、息子は息子らしくいられる。息子の特性はここにいるとき、「障害」にはなっていないので、「診断すること」の必要性を感じない。

なんて空気の軽い、居心地のいい場所なんだろう。そしてちょっぴり息子がうらやましい。

あの頃「生きづらさ」を感じていた私が、のどから手がでるくらいに欲しかったような場所。探し求めていた場所。 

それが、息子の居場所にあったのだ。

「私を変える」よりも大事なこと

あのとき私を救ってくれた「アスペルガー」という言葉。 

そしてすっかり忘れていたのに、息子と過ごす中で舞い戻ってきた、自分を説明してくれているようにも思える、いろんな言葉たち。

でも今はそれらに縛られることなく、目の前の息子と、そして自分と、ただ向き合っている。

そして息子が「きらい」な場所から「すき」な場所に移動してから、なんだかじわりじわりと、私自身も癒されていくような気がしてならない。

私がダメだったんじゃない。 ただ「合わない場所」にいただけだったんだ。あの近所の小学校・中学校・高校・・・私にとってはあそこがすべてで、あそこでやっていかなければダメなんだと思い込んでいたから。

でも本当はあそこがすべてじゃなかった。

私と同じようにあそこになじめなかった人たちが、疑問をもっていた人たちが、少しずつ少しずついろんな場所を作ってくれている。

そう思えるようになると、「私を変える」よりも「私を私に合った場所に置いてあげる」ことを大切にしたくなる。自分が自分に向けるまなざしが、そんな優しいものにかわるような気がする。

今どうしても場所を変えられない人であっても、「ここがすべてじゃない。本当はいろんな場所がある」ということをただ知っているだけで、救われることもあるのかもしれない。

息子のおかげで気づけたこと。

息子のおかげで見つけることができた、
「生きづらさ」に対する私なりの答え

長い長い時間がかかったけれど、よくぞここまでたどり着いた。

そうしみじみと思う、今日このごろです。

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セラピストもよ